球磨川第一橋梁と同じくこの橋もニューヨーク生まれのトラス橋で、トランケート式の斜めに切り詰めた構造が特徴である。架橋完成は1908(明治41)年。ピン結合式曲弦プラットトラスと呼ばれる鉄骨組構造で上路プレートガーダー橋である。橋脚も球磨川第一橋梁と共通する煉瓦、切石平積み構造。明治期にアメリカからもたらされた鉄橋構造がどのようなものであったのかを今に伝える貴重な遺産である。
全国唯一の現役石造鉄道車庫。球磨地方特有の溶結凝灰岩(灰石)で建造されている。特に妻側入り口のアーチ部が美しい。以前は建物内に鍛冶場もあり、部品の製作も行われた。明治期の竣工で球磨人吉方面最大の石造建造物。
人吉駅ではホーム上屋に古レールが再利用されている。特に1番線のホーム上屋にあるドイツ、ウニオン社1889(明治22)年製のレールは最も古く、九州にはじめて鉄道が開業した年のものである。北部九州に最初の列車が走った当時、その技術や車輌、資材はすべてドイツからもたらされていたので、その名残だといえる。さらに人吉駅にはアメリカ、カーネギー社製のレールも見られるが、これは南九州の鉄道がアメリカの技術と資材によって延伸されていった頃のものである。
わが国唯一のループ、スイッチバック複合線。ループ内に駅がある点でも極めて珍しい。日本における鉄道草創期、明治時代の挑戦を今に伝える貴重な現役登坂システムである。全国を縦断する鉄道網建設最後の難関とされた山線の加久藤峠越えはここに極まる。
ループ線、スイッチバックの途中にたたずむ全国唯一の駅。構内には蒸気機関車時代の石造給水塔、造営当時の姿をそのまま伝える木造駅舎、内田百閒の鉄道紀行小説『阿房列車』にも登場する花弁型の水盤などが残る。「おこば」の駅名板も昔のままで色彩、書体は古き良き時代の鉄道旅行を彷彿とさせる。
大畑から最大30パーミル(千分の三十勾配)の急坂を昔は重連のデゴイチ(D51型蒸気機関車)が喘ぎながら登っていた。頂上は標高54Omの矢岳駅。駅の南で一旦宮崎県に入ると矢岳第一トンネルがある。3年以上の月日をかけて苦心の末に掘り上げた肥薩線最長の隧道。両口には山縣伊三郎と後藤新平の揮毫による石額が掲げられている。難工事だったと伝えられ、出水で運搬用の馬が溺死したというエピソードも残る。
1903(明治36)年9月、南の鹿児島から横川(現大隅横川)まで延びていた鹿児島線(現肥薩線)は、横川~吉松間が新たに開業する。吉松駅が新設され、やがてこの地は吉都線経由で宮崎方面にもつながり、南九州の鉄道拠点、交通の要衝として栄えることになった。石造燃料庫は吉松駅開業に際して建造されたもので、南九州特有の溶結凝灰岩を巧みに積み上げた頑強なもの。まさに肥薩線のすべての歴史を知る小さいながらも貴重な遺産だといえる。
霧島連山から伏流する清冽な水は栗野駅近くの丸池湧水にこんこんと湧き出ている。煉瓦暗渠はこの湧水をかすめるように走る肥薩線の下を貫通。ポータル(入り口)は小規模だが、延長は67メートルに達し、かつては何本も敷かれていたレールを支えている。
吉松~隼人間が鹿児島線として官設で開業したのは1903(明治36)年9月のことである。開業当時の姿で駅舎が残るのも肥薩線の魅力。大隅横川駅もほぼ原形をとどめ、細部に明治の駅らしい意匠を見る。ホームを覆う上屋を支える柱には太平洋戦争時の機銃掃射による貫通痕が残り、戦災遺跡でもある。ホーム上には九州内の国鉄駅で使用されていた標準型の木製ベンチも残る。また、当ホーム上にある「通票受け器」は、かつて特急や急行列車が単線区間に乗り入れる際に、車掌がタブレット(通票)を投げ入れた鉄道設備で、全国的に残されている例は極めて少なく、貴重である。
1903(明治36)年開業。肥薩線開業当時の駅舎によく見られる構成の標準型駅舎で、建物の半分を待合室に、残りを駅事務室や宿直室にあてている。待合室には切符販売用の窓口が残り、木製カウンターが懐かしい。天井の照明吊り下げ部には換気口を兼ねた透かし入りの凹部がある。木製の改札口を抜けてホームに出ると左右に作りつけのベンチがあり、支え板には雲形の装飾が施される。これは大隅横川駅の待合室ベンチなどにも見られ、駅舎の形状とともに開業当時の沿線駅で標準的に使われていた意匠とも思える。開業から110年。その風情と縁起の良い駅名から訪れる旅人に郷愁や感動を与え続ける駅。
明治時代中頃、球磨川の豊富な水と森林資源を原料として紙を作る近代的な製紙工業が計画された。旧坂本村に設立された製紙工場に電力を送るために建設されたのが深水発電所である。大正10年の完成以来、昭和63年まで創業当時の発電機が使用され、現在もそのまま建物の中に眠る。八代市を支える製紙工業の原点がここにある。平成20年、所有者である日本製紙の努力によって屋根の葺き替えが行われ、美しい姿が甦った。
九州の数ある近代化遺産の中でもここは特異である。昭和41年の鶴田ダム完成以来湖底に沈んでいた発電所が今、春から秋の間だけ水上に姿を現すのだ。曽木発電所が建設されたのは明治42年。牛尾大口金山への排水用電力供給と、大口地区への電燈供給が目的だった。現存するのは第二発電所。設立者は日本の化学工業の祖となった野口遵(したがう)。野口は発電所の余剰電力を送電して熊本県水俣市でカーバイト生産を開始。やがてそれは日本窒素肥料株式会社となり、チッソ株式会社、旭化成工業株式会社、積水工業株式会社の前身とな
る。ドイツ製の発電機を擁した巨大なタービン室と管理棟は壁面だけを残し、光と陰を合わせ持つ化学工業の原点となった発電所の往時の姿を見せてくれるのである。